1954
創部2年目について

下郷 久喜(昭和33年卒)

 40年史編集委員から1954年度の執筆者がいない。ついては、小生が昭和29年度最初から入部したのであるから、 何か書けとの要請があった。40にもなる昔のことであり、覚えているか不安はあるが、懐かしさから先輩諸氏を差し置いて ペンを取った次第である。
 昭和29年といえば、教育制度のうえでも占領軍のわが国に対する指導の名残である制度改革が終了し、 4年生まで全員が新制大学として入学した学生になった年である。この年に入学した我々が新宿の「ミンクス」という喫茶店で、 飯田亮先輩や後藤達郎先輩に誘われてアメリカンフットボール部に入部したのは、秋の新学期が始まる9月である。 当時フットボールといえば、映画館のニュース番組で見るだけの馴染みのないものであった。部室に行ってみると、 戦前の馬小屋を改造した馬糞の匂いが残る汚い部屋に、数個のボールと壊れかかった防具が二,三転がっているだけの侘しいものであり、 入部を躊躇したが、熱心な勧誘とアメリカに対する憧れで入部を決めたように記憶している。
 同期で入部したのは、伊地知、益子、川崎、水野(順)、水野(廉)、西山、須恵、滝、赤川(故人)に小生の10名である。 飯田、山田(故人)、中島、高野、田代、の諸先輩にわれわれ新入部員が加わり、やっと試合のできる人員が揃った。 10月になり慶応大学の佐藤さんの紹介で、パディユ大のセンターで活躍されたT・ブラック氏がコーチとしてみえられるようになり、 当時アメリカカレッジフットボール界に象徴として君臨していたノートルダムを目指そうと熱心な指導を受けた。 そのうえ、中古ではあったが、約百組の防具とユニフォームを横須賀軍基地より払い下げの労も取っていただいた。
 防具は揃ったが、何れも大きく須恵厚君の使ったヘルメットは、ジンギスカンの兜のような古典的なものであったり、 ヘルメットが大きすぎてタックルする度に目が隠れて見えなくなる伊地知寛君等話題が豊富であった。 それでもなんとか本格的にタックルやブロック練習が出来るようになり、この年は終わった。次の年の昭和30年に、 伊豆下多賀での春合同練習を経て初戦の日大戦を迎えることとなる。
 不惑の年を迎えたわが部の今日があるのは、内山名誉会長をはじめ創部期の諸先輩のご苦労に加え、 昭和31年に連盟に加入が認められて以来の先輩OBの努力なくして存在しない。現役諸君は40年史に寄せられたOBの寄稿文より、 OB会の存在や伝統が何であるかを認識して、次の飛躍に挑戦してもらいたい。
 最後に先輩OBに感謝するとともに、今日までわが部を支えてきた指導人並びにOB諸氏に改めて御礼を申し上げます。