1955
昭和30年ごろの思い出

特別寄稿 山村 良男(昭和三十三年卒)

 アメリカンフットボール部が創部四十周年を迎えられたとのこと、誠におめでとう御座居ます。 元ボート部の所属で、部外者である私が、記念誌の筆をとる御氏名に与り、戸惑いを禁じ得ませんが、 あまりにも当時が懐かしく、厚かましさを承知でお受けすることにしました。
 今から思えば創部三年目の昭和三十年、私が大学二年で、ボート部がオフシーズンの時期でした。 学習院中等科からの友人、カッパこと、伊地知君に誘われたのが、最初であったと思います。尤も、 カッパの友人は私の友、私の友はカッパの友人という状況でしたから、或いは他の誰かであったかも知れません。 兎に角、試合の数日前、人数が足りないから手伝えとのことでした。
 最初に紹介されたのが、監督兼コーチのミスター・ブラックでした。アメリカ人としては小柄な部類であったと思いますが、 米軍エアフォースの士官であり、とても威厳がありました。当時は昭和二十八年に朝鮮戦争が終結し、 軍需景気の恩恵で生活状態も多少は改善され、フットボールや、ジャズ等、素晴らしいアメリカ文化の一端が 進駐軍によって持ち込まれ、日本にも急速に浸透し始めていました。しかし、その頃絶大な人気があった漫画の主人公、 ダックウッド家の大型電気冷蔵庫や、厚さ十糎位はある、中身の大きくはみ出したサンドイッチ等、 日本人には別世界の豊かさや贅沢さを、見せつけられて圧倒されていた我々は、アメリカ人に対する、 ある種のコンプレックスを拭えないのも事実でした。
 そのミスター・ブラックによる最初の練習の思い出は、脳震盪寸前の激痛です。選手を二手に分けてのタックルの練習の時でした。威厳あるミスター・ブラックの号令のもと、 渾身の力を振り絞って相手にぶつかったのです。日頃はオールと水が相手のボート部員ですから、 常に全力を傾注する事が要求されています。「ボートは敢闘精神で漕ぐものである。敢闘精神とは全身の力を使いきった後に、 尚、漕ぎぬく精神である。」と、叩き込まれてもいます。私より十数糎上背のある、ミスター・オルテガこと、 髭の高野先輩が見事にふっ飛んだのを見て、ミスター・ブラックは「ヤマムラ、ベリー グッド」とおおいに誉めてくれたものです。
 ところが、その後が大変でした。オルテガ氏の髭先は怒りでブルブル震えている感じでした。無理もありません。 新人を相手にしての優しいこころ配りを仇でお返ししたのですから。「ガッツン」。目から火花が飛び散ると同時に、 大きな衝撃が背骨を伝わって頭のテッペンへ抜けていきました。頭が繋がっていることを実感した、始めての経験でした。
 最初の試合は、成僧にあるアメリカン・ハイスクールとのものでした。与えられたポジションは、タックルであったと思います。 グランドの隅には救急車が待機し、対峙した相手のラインは高校生のくせに、見上げる様な大男ばかりです。 特に目立ったのは、センター伊地知の前にノーズガードをつけて立ちはだかった、インディアン系の精悍な顔つきをした選手です。 映画の西部劇の人気が極めて高く、「インディアン嘘ツカナイ。インディアン強クテ、コワイモノナイ。」の時代ですから、 尚更です。案の定、彼は敵ながら天晴れな活躍ぶりで、我がチームを随分悩ます存在でした。ところが、 次か、その次の試合の時に姿をみせないので聞きますと、先週の試合で首の骨を折って死んだとのことで、 愕然とさせられたものでした。それでも、相手は大男でもハイスクールの故か、腰は弱く、我がタックルに、 地響きを立てて倒れる様が壮快でした。試合は奮戦空しく負けましたが、我軍の頼みの綱、 名フルバック飯田先輩の鮮やかな活躍ぶりは、今でも目に浮かぶ程です。
 横浜のハイスクールとの試合の時でしたか、例によって突進してくる大男にタックルをかけて見事に倒したのはよかったのですが、レフリーが恐ろしい顔をして、 私を指さし乍ら十五ヤードの罰退を命じています。実は、オフェンスの時にはブロックのみしか行ってはならないルールを、 その時まで知らなかったのです。試合が終わると、「ナイス ゲーム」「ナイス ゲーム」と互いに挨拶を交わして分かれますが、 その後の情景は彼我の差の極めて大きなものでした。彼らの側は、応援席から一斉に飛び出してきたガールフレンドたちの嬌声が充満し、 次の瞬間、夫々のお目当ての選手との間で固い抱擁とキッスが交わされます。我軍はシモこと下郷君や、 カッパの粋がる姿は合っても、嬌声どころか、応援団の姿は皆無の状況でした。
 飯田先輩を始め、レンペイこと水野君、ジョローこと滝君等、出る処に出れば大モテする好男子が溢れていたにも拘わらず、淋しさを味あわされていたのですから、 当時の日本では、未だ、フットボールが大衆化するには程遠かったと云うことであったと思います。
 ついでに、その他の選手の思い出を書かせて戴けば、ホーチャンこと、須恵君(私は本気でベトナム留学生と信じていました。)は、 日本人離れしたネバッこい好プレーを見せていました。ヂュンスケこともう一人の水野君は、スモール飯田とも云える、 典型的なスポーツマンタイプで、頗る華麗なプレーで大活躍をしていましたが、その姿以上に思い出すのは、 水野家で母上の手料理で御馳走になった鯨のステーキのおいしかったことです。 シモはチェロを奏でている時の優雅な姿にはどうしても重ならない、果敢なプレーを見せていました。
 カッパの説で、アメリカ人プレーヤーの如く力を発揮するには、一日当たり三千六百カロリーの栄養を摂取する必要があるとのことで、 中身不明(大量のニンニク入りだけは確実)の安いギョーザを、ゲップが出るまで食べ歩いたのも思い出されます。 尤も、食い飽きるより以前に、財政事情で永続きはしませんでしたが。
 いずれにしましても、ボートですと、クルーから最大の力を引き出す方法として、二ヶ月程度の合宿を組み、最初は徹底したハードトレーニングで体力をつけると共に、 オーバーワーク的にコンディションを最低まで落として、心身共にばらばらの状態にし、その後の調整によってこれを組み立て、 全員が完全に一体化したものを作り出します。各選手が大いにばらばらになればなるほど、 逆にその後の結束が強固になるとの考え方で、いわば、前時代的な面が多分にあります。
 一方、フットボールは、多様なフォーメーションを軸に、かなり科学的要素を重視して戦うと云うことで、私にとっては、 全く新感覚の驚異的なスポーツでした。今でも、私の様な部外者を含めて、当時の仲間が大変仲良しで居られるのは、 歴史が浅いにも拘わらず素晴らしく優れたスポーツを、共に楽しんだと云う要素が大きいとは思いますが、 やはり、当時の日本では未だ白紙に絵を書くが如く、新しいものを創出する感激を味わえたからだと思います。
 改めて創部四十周年への意義を感ずると共に、その最初の段階で手伝いをさせて戴けた幸運を感謝し、 フットボール部の益々の御発展を心より祈念して、筆を置かせて戴きます。