1957
ノートルダムを目指して

須恵 厚

 前年度(昭和31年)連盟加入が認められた我が部は、初めての公式戦(関東学生アメリカンフットボールリーグ) 全敗という惨めな結果に終わった。4年生になった昭和32年、伊豆多賀での春合宿を無事終え、初戦は5月5日の2回目になる甲南大学との定期戦であった。 この初めての関西遠征は、当日低気圧の中心が近畿地方を通過する中での雨中戦だった。前年は戦力も同じようで5分 (14対24)に戦えた相手であった甲南は、30人余と増えていて、思っても見なかった大敗(0対75)を喫した。 その上、西宮競技場の粗い砂が雨のためユニフォーと体の間にしみ込み、すり傷が3週間も消えなかった痛い思い出が残っている。
 秋のシーズンにそなえ、8月に長野県野沢温泉で、部発足間もない成城大学と合同合宿を行った。そのときの成城大学 のコーチで、立教大学優勝時のクォーターバックで今は亡き加藤さんの良きアドバイスは今でも忘られない。ご冥福を祈 ります。秋季リーグの第1戦は、台風一過快晴の9月8日の後楽園競輪場での立教大学戦だった。翌日の日刊スポーツに よると、「40人余と豊富なメンバーを有する昨年2位の立大と交代メンバーが4人しかいない最下位の学習院大とでは 勝負にならなかった。立大は第1クォーターでQB藤田からRE角谷への見事なパスでのタッチダウンをはじめ、第2クォー ターからは新人を起用して一方的に学習院大を押し捲り大量101点をあげ完封した。」と書かれている。
 第2戦は対早大(0対67)、第3戦(0対60)と無得点試合が続いたが、第4戦対明大戦では、ファーストダウン 数では9対13と、試合内容に進歩の跡が見られるようになり、8対47と初得点を記録した。得点したのは1年生のHB 藤田君と4年生のQB益子君(残念ながらファンブルによるセーフティー・タッチバックか?)と記憶している。対慶大 (0対104)、対日大(0対103)と連敗が続き、最終戦の防衛大戦は、日刊スポーツによると「前日早大を圧倒し た防大ライン陣は、ザルのような学習大ラインなどものともしない。2軍でスタートした防大は開始5分、学習大のキッ クオフボールを自陣25ヤードからフレッシュタッチダウンを1つ重ね、RH宮川がオフタックルに出てタッチダウンした。 先取点をあげた防大は以後ベストメンバーを繰り出して、主将のRH長谷川、FB佐藤、LH杉野、RH西元(いずれも交代選手) らがつぎつぎとラインをついてタッチダウンを重ね、野村−西元、西元―石川のパスも織り混ぜて完全に学習大の息を根 を止めた。学習大は後半8分FB須恵がキックオフリターンで70ヤードの独走を見せ辛うじてタッチダウンを返したのみ。 昨年リーグ加盟以来連続テールエンドに終わった。」とある。スコアは6対69で大敗、最後まで公式戦は勝てなかった。 しかし去年のリーグ戦では全得点が6点で終わったのに比べ、14点と倍増したのがせめてもの救いであった。
 また、夏の合宿を一緒にやった成城大学を文化祭に招いて交流戦を行い、14対6で部創立以来初めて勝利したことを 特に付け加えておきたい。次に、どうしても忘れることの出来ない人に、昭和29年の10月から31年にかけて本場の フットボールのコーチを受けた、パディユ大名センターのT・ブラック氏がいる。
 T・ブラック氏が当時アメリカのカレッジフットボール界に象徴として君臨していたノートルダムを目指そうと言われ、 我々が最初に手にしたフォーメーションは、踊り子のステップにヒントを得たというオールドTからボックス型へシフトす るノートルダムボックスフォーメーションである。ロックニ−ヘッドコーチ自身がピアノを弾きながら、シフトする4人の バックスにステップを教え込んだと言うこのフォーメーションは、リズム・タイミング・スピードの3つの要素があり、練 習を重ねないとマスターが難しいフォーメーションであった。
 そのフォーメーションに挑戦した我々は、当時、日本で1番システムだけはすすんでいたのではなかったかと思う。 しかし、システムだけでは勝てないのがフットボールであるということが学べた1年であった。