21世紀に向けて
特別寄稿 立岩 彰(昭和三十五年卒)

1959
アメリカンフットボール部と私

立岩 彰(昭和三十五年卒)

 アメリカンフットボール部OB会四十年史編集委員会より、一筆書けとの要請を受け今日は明日はと思っている中に、 再度督促を受け漸く重いペンを取り上げた次第。学習院大学に入学したのが昭和三十一年だから何しろ三十七年も前のことで何故 アメリカンフットボール部に入部したのかはどうも定かではない。しかし部の諸先輩の強引な勧誘で嫌々ながら入部したので はなかったようだ。高校時代には東大に入ったら六大学リーグで野球をやろうと密かに考えていた自分にとって、第二志望の 学習院への入学が決定的になった時には、少々がっかりもしていたことも偽らざる事実であった。したがって確たる目標もな く、ただブラブラしていた時、学習院新聞より勧誘の手紙が届き、一時は記者になろうかと考えていたことを覚えている。し かし一方では何かスポーツをやり心身を鍛え、有意義な学生生活を送れないものかとも考え、輔仁会各運動部の説明会にも出 席し、諸先輩の説明に耳を傾けたのを昨日のように思い出す。当初やはり中学、高校の前半までやっていた野球のことが気に なり注目したが、当時の野球部は東都大学リーグで一部昇格を果たし意気盛んで、入部の条件も高校野球部の推薦、ないしは 野球部の体力・技術テストに合格することとかなり厳しく説明された。これでは何のためのクラブ活動か、甚だ疑問に感じ門 をたたくまでには至らなかった。
 一方アメリカンフットボール部は当年(昭和三十一年)より早、慶、明、立、法、日大のリーグ戦に学習院の参加が決まり鋭 意陣容の強化に注力中。新入生の積極的参加を熱望との説明あり、関心は次第にアメリカンフットボール部に傾いていった。  アメリカンフットボール部は米国ではナショナルスポーツとて人気は野球をしのぎ、その隆盛振りは既にニュース映画等で 知っていた。しかし果たしてやったことの無い者がやって行けるのか聊か不安ではあったが、当時憧れていた米国を理解する にも一考に価すると思い、とにかく門をたたいたのが第一歩だった様に思う。その中@集団の競技ではあるが格闘技の要素が 強い。A野球と同様攻撃と守備が別れているが、高度の戦略性という意味では到底野球の比ではなく、またそのパワーとスピ ード感は競技の中でも最右翼との感を深くし、知らず知らずの中に熱中してしまったようだ。爾来、現役、OBで直接、間接 にアメリカンフットボール部に関わってきたが、この機会に苦節と云われる遠い昔の記憶を呼び覚まし、往時を回願しつつ更 なる発展を期したいと思う。

一、 現役時代
 昭和三十一年に入学した同期の中でアメリカンフットボール部の面々は当初十数名を数えたが、二年の終わりでは雨宮、加 来、坂下、数原、仙波、立岩、羽田野、西島と半減、三年では雨宮、立岩、羽田野、西島四名のみが選手として頑張 り、他の者は負傷等により休部又は退部して行った。従って毎日の練習では選手不足は否めず常時二チーム編成は困難で片面 でのスクルメージのよる練習を余儀無くされ、これが実戦ではハンディキャップとして出ていた様に思う。確かにその年(昭 和三十三年)のリーグ戦は国立競技場、後楽園競輪場で行なわれ、学習院は日、立、慶、法、早、防、明に破れ最下位。翌年 は二部制をとることにより、明治大と共に二部に行くこととなった。当時の日刊スポーツ「夏の合宿廻り」で学習院の欄は小 野木マネージャーの「先ず点差が開かぬ様ディフェンスを固めることから始めている」旨の談話で始まり攻撃力に決定打がな く最下位脱出は容易ではないと予想されていたのを思い出す。果せるかな日大、慶大には一〇〇点差ゲームの惨敗。他校との 合同練習等では個人的に遜色の無い選手も多く、それ程差があるとは思えないが試合となるとチーム全体の勝利に対する意欲 、執着心等が持続せず、ただ無気力に試合を消化する様な二流チームによくある状態となってしまい、やる気のある者にとっ ては甚だ口惜しいことではあった。しかしそれでも救われたことは、シーズン途中で学習院の窮状を見かねた日大OBの竹本 氏がヘッドコーチを引き受けられ、フォーメーションの調整を中心に全員の動きを矯正したことだった。この様なちょっとし た指導でも効果は直ちに対明治大、防衛大戦に善戦という形で表われ、やはり部としてアメリカンフットボールが良く分る指 導者が必要であることをこの時程痛感したことは無かった。
 昭和三十四年は最後のシーズンとなったが春の定期戦では甲南大に三十三−〇(於西宮)で破れ、成城戦では辛くも勝利をお さめた。この時特筆すべきは、甲南戦の翌日、東西大学交流戦として西宮で京都大と対戦したことであろう。定期戦ではなか ったからか接戦だったが何れが勝ったのか記憶が曖昧。後日日刊スポーツでは京大十三−六学習院大と報じられている。京大 といえば、今では関西はもとより日本の代表的大学のアメリカンフットボール・チームではあるが、当時はわが学習院と共に 東西の下位チームで実力的には同程度の様に思われた。しかし対戦して見て試合態度も紳士的で実に爽やかな感じがし、われ われも見習うべき点が多々あった様に思う。今にして思えば、後日京大の雄飛は彼等のバックアップも大きな要素ではなかっ たのだろうか。この四十周年を機に往時を偲びながら旧交を温め、共に更なる発展を期して大学チームの交流戦を復活させる ことも意義あることではないだろうか。秋のリーグ戦は日体大、明治大に連敗。よもやと思われた東大戦にも敗退した。当初 、攻撃力強化のためライン、バックスの間でのコンバートが検討されたが、結局選手層の薄さが致命的で徹底せず、ライン・ リバースを奇襲攻撃としてフォーメーションに加えた程度で、消極的なディフェンス中心の布陣を取らざるを得なかった。最 終戦の対東大でもほとんどは東大陣内で戦いながら敵ゴール寸前でハンブルを繰り返し、再三の得点チャンスを逸したが、今 にして思えば攻撃力強化の不徹底がその原因の一つに思えてならない。前年の竹本氏の例を見てもやはり優秀なヘッドコーチ が必要であった様に思う。幸い成城大戦には勝利をおさめたが、反省点の多い不本意なシーズンであった。確かリーグ戦最後 の東大戦に破れた翌日は雨で、一人近くの鷺宮の田んぼの中を歩きながら、OBになっても現役時代の貴重な体験を生かし、 チーム強化のため大学、OB会に働きかけ、いつの日か勝利に対する熱い感動、感激を知る立派な部に発展すべく努力しよう と心に誓った。何故かほろ苦く、無性に涙が出て止まらず、雨と共に頬を濡らしていった涙の感触は今だに忘れられないもの がある。

二、 OBになって
 昭和三十五年卒業後しばらく会社の業務研修、英会話レッスン等で時間余裕が無く、アメリカンフットボール部の練習、試 合等には疎遠になりがちであったが、昭和四十年春、突然勤務先の三菱商事にアメリカンフットボール部OB会より緊急に総 会を開くとの電話連絡が入った。連盟理事をしていた私に万障繰り合せ出る様要請があり、急遽出席した。主たる議題は「O Bコーチング・スタッフの現役に対する体罰事件」であった。大学側は現役及び現役の父母よりの苦情を問題とし、OB会に コーチング・スタッフの更迭と然るべき適切な措置を要請。実施されない場合は廃部もあり得べしという強い態度であった。 内山会長(当時)が議長となりコーチング・スタッフの更迭が決議され、新コーチング・スタッフについては監督に飯田氏を指 名、コーチは同氏に一任することに決定された。尚同時に適切な措置についてはコーチング・スタッフ責任者のOB会よりの 除名が決議された。私は確かに体罰は問題なしとはしないが、特に運動部においてはそれが愛のムチか否かの議論もあり、一 概には否定出来ない局面もあり得るとの観点より、この際当事者より事情を十分聴取し後日然るべく善処すべきとの意見を述 べたが、愛のムチなら、これ程問題とはならないとの意見が強く、又部の興廃をめぐり事態が切迫している時でもありやむを 得ず多数決で決議されてしまった。四十周年を迎えた今日、当時血気盛んで若かった当時者諸氏も、各々立派な社会人として 活躍されている由、ここら辺でそろそろ名誉回復を図り、OB会復帰をも検討しては如何なものだろうか。
 内山会長の適切な対応により心配された謹慎期間中の公式戦事態等は回避することが出来、新たに指名された田代ヘッドコ ーチの下現役は心機一転トレーニングを再開した。
 一方、私は現役の練習、指導とは別にアメリカンフットボール部を学習院を代表する立派な部とするため、日頃えていた 大学側への働きかけを開始することとした。
 第一目標は先ず「大学輔仁会運動部会における地位改善」であった。即ち旧制高校時代より実績のある公式野球部、ラグビ ー部、公式庭球部、陸上ホッケー部等の部が格上で新制大学発足後設立されたわがアメリカンフットボール部、スキー部、ア ーチェリー部、ゴルフ部等の新興の運動部は形式的には部として対外試合等の活動は認められてはいるものの、予算の割当等 には文字通り歴然たる格差があり、運動部とは云っても予算的には同好会の範疇に入り、中には部ではなく同好クラブとの陰 口を耳にすることも多々あった。これでは部員の志気にも影響し、又部員勧誘においても一部アメリカンフットボール愛好者 以外は魅力を感じて入部する者が少なく、十分な部活動を遂行し難い。この点につき大学側と話し合い改善を申し入れる必要 があった。そのため先ず手始めにアメリカンフットボール部長に教授クラスの方に就任していただき、現役の教育と共に大学 関係部局とのコミュニケーションを図ることを検討。偶々、私のホームルームの先生で常日頃ご指導いただいていた金沢教授 に趣旨をご説明申し上げお願いしたところ、直ちに快諾の返事を得ることが出来た。次に内山会長と打合せ、輔仁会運動部会 における当部の地位改善につき大学側に内山会長信を出状。当時学長であった桜井教授とは部長の金沢教授のお力添えもあり 懇談する機会を得、当方は内山会長ご同席の下に「同じ運動部でありながら旧来の部と新制大学発足後の部を今だに差別して いるのは教育の観点から見ても納得が行かない。やむを得ず格差をつける場合でも基本的には資格は平等にて、あとは活動状 況で考慮すべき」との見解を申し上げたところ、学長は直ちに理解を示され、早速担当の磯部教授(後の学長)を紹介された。 同教授には決定機関であり運動委員会にかけ、審議に入る様ご配慮いただき、事態は好転して行った。結果は当方の主張「全 ての運動部は平等」とは別に第一段階として当部の他スキー部、アーチェリー部が格上げとなり、一応曲りなりにも当方の目 的は達成された。これも最終的には当時(昭和四十三年)主将であった鈴木君、奥沢マネージャー以下現役諸君の格運動部委員 に対する粘り強い説得がなければ到底実現出来なかったことであった。この格上げは部としては開闢以来の快挙であり、金沢 教授はじめ須恵監督、OB、現役共に大願成就を喜び希望あふれる球史の第一歩を祝したものだった。
 その年は須恵監督のもと部の志気は大いに盛り上がり、対甲南大定期戦には宿願の初勝利をあげることが出来、OBも現役 時代には無かった感激を味わい、祝杯をあげたものだった。 翌年(昭和四十四年)も甲南には連勝、漸くリーグ戦でも堂々 と戦える陣容が整い、前途に光明が見える思いであった。
 昭和四十五年には私が須恵大兄の後を継ぎ監督を勤め、三たび甲南を破ることが出来た。しかし、仕事の関係上、急に欧米 への長期出張が決まり、シーズン半ばにしてやむを得ず部を去ることとなった。勤務先の都合とはいえ部には実現すべき懸案 事項が多く、心残りではあったが、あとは後進に託し成功を祈るのみであった。

三、 母校アメリカンフットボール部との再会
 三菱商事の長い海外勤務と多忙であった部長職の任期も終りに近づき、社外役員として関連会社へ出向く準備で一息ついて いた一昨年冬、偶々横浜球場で母校アメリカンフットボール部が二部優勝を果たし、一部入替戦で健闘している雄姿に接する ことが出来た。一〇〇名を越えんとする大軍団が一部昇格を目指し、戦う姿を目の当たりにして、強い感動を覚え思わず目頭 が熱くなった。
 私が昭和四十五年、部を去って早二十三年。その間に夢にまで見た大軍団に育て、今や学習院の主力運動部に発展させたO B諸兄並びに現役諸君に敬意を表すと共に、この四十周年を迎え更なる発展を期し私も微力ながら再び部に貢献したいと思う 今日この頃である。