1962
十一人のアメリカンフットボール

岡田菊治郎 (昭和三十八年卒)

 我々が四年生の昭和三十七年と云えば、反安保闘争が吹き荒れた暗い時代から、池 田内閣の所得倍増計画と云う今日の礎となった高度成長時代への転換期となった年で ある。
 その頃はまだアメリカンフットボールは日本ではメジャーなスポーツとは云えず、 マイナーなスポーツであった。通称「アメラグ」関西では「アメリカン」と呼ばれ、 現在のようなテレビ中継は勿論なく、スポーツ新聞でさえ片隅にスコアーだけが記事 の穴埋めのような形で載るだけだった。
 その当時の我が部は、創部以来十年にもなると云うのに相も変わらず「無い無いづ くし」の状態であった。まず部員数が極端に少ないことである。恒例の春の甲南大学 との定期戦では、一年生部員の入部が無く十一名ぎりぎりで戦ったように記憶してい る。結果は推して知るべし。 夏の合宿でも前年から引き続いて日本体育大学との合同合宿を実施したが、ここで も一年生部員が入ったとは云え十名ぎりぎりで、怪我で欠員が出ると日体大から人を 借りてスクリメージを組むという有様であった。
 秋のリーグ戦が始まる時期には、部員数は十四名に増えたが、この人数では思うよ うな練習も出来ず成績はと云うと三十数年も前のことでもあり記憶の外になってし まっている。防具にいたっては、ほとんど進駐軍の払い下げで先輩の使い古しのボロボロ防具で ある。中には片方ずつ別のショルダーを合わせて使ったりもしていた。ボールもラグ ビーボールのように膨れあがったものが二個、ダミーは一個というような貧しい運動 部であった。それでも我々は、アメリカで盛んなものは、何時か日本でも流行るぞと いう気持ちをもって練習と試合に励んだものである。
 創部四十年になる今日のこの隆盛を誰が予想することができたであろうかと感慨深 い思いがするこの頃である。四十年に亙るOB会員の弛み無い努力と、このような苦しみとか屈辱の歴史が積み 重なり今日がある訳で、このことを現役諸君は肝に銘じ、更に一層練習に励み、近い 将来「ライスボール」出場という我々の夢を実現させて欲しい。

 昭和三十七年の四年生は、主将松永君(エンド)、副将私(フルバック)、吉川君( タックル)、主務神永君の四名である。