1964
我が青春の思い出

吉川 嘉之(昭和四十年卒)

 NFLのフットボールが映ると言うので衛生放送をつけてしばらくになる。フット ボールこそは我が青春の思い出である。50になってしまったオジンにとっては遠い 昔の夢になってしまった。あの頃はアメフトの名前だけは知るもののその何たるかを 知る人の数は極少なかった。銀座の洋書店でようやく英語のルールブックをみつけは したものの、我々の語学力ではわからなかった。新宿のスポーツ店でプロテクターを 売っているものの当時の金額で五万円もする買い物は出来ず、それでも買う先輩や後 輩が羨ましかった。先輩の古い防具を譲り受けて、ひざのパッドは雑巾で我慢し、卒 業の日までラグビーシューズを常用していた。
 部員は十二・三人しかいないので、今 井君には腕の骨折を無視して出してしまったし、日大の三軍に相手をしてもらって練 習試合をしたものの、私の飢えには九人もの人が折重なり、一番下に玉を抱えた私 はブキッという不気味な音とともに肋骨を折ってしまうほどに弱かった。練習といえ ばカモンタックルばかりで、だからOBの来ないウィークデーは反動だろうか気の抜 けた練習ばかりしていた記憶がある。カモンタックルといえば両足をつかまれた私は 簡単に足の骨を折ってしまった。こんな怪我ばかりしていていても当時の4年間は長 かったのだろうか。大学の洋式トイレには終始お世話になった。これで強かろうはず がない。
 でも当時は青春時代であった。一生懸命やっていた。日体大の合同合宿では 真っ先に起きてグラウンドに行く用意をしていた。当時の一番のグラウンドは後楽園 の競輪場だった。観客ゼロ。プレーヤーの周りには監督と、得体の知れない誰かさん の彼女何名か?この頃の写真を見ていただきたい。この写真を撮ってくれたのは私の 友人、根本君だがこれを撮ってまもなくスキューバ・ダイビングで、吐かなくも命を 失ってしまった。彼はカメラの望遠を駆使して我々のプレーを色々の角度から写して くれた。当時の我々にとってかけがえのない存在であった。まだカラーとか、いわん やビデオなど存在しなかった時代。フットボールといえば少ない観客。怪我ばかり。 ルールも卒業を控えてどうやらマスターしたかどうか。しかしヤンキー魂か大和魂か しらないが肉弾戦に憧れて、今これをやれば将来はきっと役にたつ苦労と思ってやっ てきたが、今になって見れば青春の思い出以外何も残らない。しかし、思い出のある 事こそ青春のあった証拠だろう。衛生放送のフットボールを見る度に我が青春の血は 踊る。