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貴重な想いを共有した友
高瀬 忠(昭和四十一年卒) 中島や私たちが入学した昭和三十七年は、前々年のいわゆる六十年安保の騒乱状態 が一転して、国内は平静状態に、学生運動は一種の虚脱 状態となった時期であった。その後の七十年安保の状況からみれば、学生運動の中で は、私たちは”遅れてきた”あるいは”早すぎた”世代である。 中島は入学とほぼ同時にアメリカン・フットボール部に入り、私自身は一年遅れの入 部だった。池袋の安アパートで日がな、安酒をあおっていた私 が入部したのは、その頃の学生生活にいささかの自己嫌悪を持っていたためだろう。 中島のことを一言で語るのは難しい。ただ、つねに冷静であった。試合がエキサイ トしているとき、先輩の理不尽な仕様に、私たちが怒っている ときも、中島はいつもさめていたように思う。今でも、試合中の白っぽい風景の中に 彼の白っぽい表情が浮かびあがる。いつも穏やかであった。それでいて妙に強烈な印象が残っている。 卒業して数年後、一度だけ、中島にあったことがある。学生の頃と変わりなく、穏 やかだった。以来、二十年余、中島に会うことはなかった。 他の同期、先輩などとも、私が九州に戻ったこともあって会うことはなかった。 中島のその後の人生も何一つ知る事はなかった。別れて以来の歳月の中で、私なり の道を歩んだように、中島にも幾多の生き様の変転があったろう。それを語り合うこ ともなかった。中島の想い出も、その風貌も現役当時のグラウンドの中で凝結してい る。彼の訃報を知らされたとき、やはり、 彼は白っぽい表情しか見えてこなかった。人生の中でも、わずかしかない貴重な想い を共有した友であった。ただ、冥福を祈るのみである。
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