| 1971 | |||||
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不成績の責を負う私
斎藤 直良 (昭和47年卒) 我々の時代は部員総数が常に二十名前後と少数精鋭であったが、同期も御多分 に洩れず四名を数えるのみであった。 内田信行(ガード、ラインバッカー、現福岡市在住) 峯川 務(ハーフバック、現福岡市在住) 奥沢 昇(マネージャー、現狛江市在住) 斎藤 直良(ガード、現横浜市在住) の以上であった。 全員が今思うと異常な迄にフットボール中心の生活を送っていたと思う。従って その後も学習院に残り勉学に、そして後輩の育成に当たったメンバーも少なくない。 奥沢に至っては、輔仁会での業績は勿論の事、連盟でも幅広く活躍した事はよく知 られている通りである。 さて、肝心の勝敗は残念ながら、惜しい試合は多々あったものの公式戦で一勝 もできない結果となった。特に春の甲南定期戦は、我々一年の時の初勝利(鈴木 主将)から二年(橋本主将)、三年(中島主将)と輝く三連勝を飾っていただけに 諸先輩から引き継いだ伝統を守りきれず今もって誠に申し訳ない気持ちで一杯であ る。しかしながら、あの三連勝に我々もいささかながら貢献できたのではないかと 今でも自身を慰めることもある。なぜなら我々が三年の時の対甲南戦勝利は、その 内容が素晴らしくパスプレー、ラインプレーとも面白いほどゲインし、まさに快勝 であったことが良い思い出となって残っているためであろう。 ここでメンバーの名誉のため同期各位の名選手ぶりと、その持ち味等について振 り返ってみたい。まず、内田は九州男児(県立熊本高校出身)だけに決して弱音を 吐かない不屈の根性の持ち主であり、プレーは鋭く攻守ともにチームの要であった と思う。峯川(市立船橋高出身)は、小柄ながら俊足、俊敏でありハンドオフでス クリメージラインを抜けるスピードは一流であり、ともかく速かったの一語に尽き る。奥沢(神奈川浅野学園出身)は、四年間マネージャーとして、学内外を問わず 活躍し、その顔の広さと影響力は計り知れないところであった。リーグ戦の最終戦 で、須恵監督の指示でスーツを着てプレー(ボールキャリアー)したことが同期に とって忘れられない想い出になっている。最後に斎藤(県立横須賀高出身)である が、期待されながら不発に終わった感がある。今後とも現役時代の不成績の責を一 身に負うこととなろう。 ここに四十年史編集に当たり拙文を寄稿させて頂きましたが、この誌面をお借り し私どもに貴重な体験を与えてくださった当事の監督、コーチ、先輩、後輩の諸氏 に 改めて厚く御礼申し上げます。大変有難うございました。
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