1988
忘れられない一年生時の二部昇格

黒木 秀文 (平成元年卒)

 一年生のとき、アメリカンスピリッツと格闘技へのあこがれからアメリカン フットボール部へ入部した。当時の我が部は、関東フットボール協会三部リ ーグに所属し、我々の第一目標は二部復帰を必ず果たすことであった。この 年入部した一年生は十四名全員高等科出身と、過去にないめずらしいケース であった。どうゆういきさつで三部にいるのかは、当時一年生の我々にはよ くわからなかったが、当時の三部リーグといえば一年生の我々から見ても決 してフットボールとはいえないほど、人数も、設備も、そしてシステムもで きていないチームが多かった。一方、我が部のメンバーはというと、人数こ そ四十五人余りと現在の八十名以上の定着したジェネラルズよりは遥かに少 ないが、二木先輩や、熊澤先輩を初めとする大きなフロントメン、富田先輩 や古川先輩を中心とする二年生バックス陣はすごかった。また、三部として はめずらしくパス中心の攻撃としてのワンバックなど、宮田ヘッドコーチの 指導するパッシングオフェンスは、最終的に非常によくまとまったチームが 出来上がった。
 その年の春、甲南大戦、四大学戦を共に勝利の快挙を果たし、オープン戦の 最後の試合では、一部リーグ所属の中央大に対し七十三−十七という大差で、 文字通り力でねじ伏せる格好の試合が出来るようになった。この大差での勝 利が秋のリーグ戦全勝優勝、二部復帰への大きな自信となったのではなかっ たかと思う。
 この優秀な四年生の残したものは三部優勝ということだけでなく、特にフロ ントラインメンとしては、四年間のフットボール部におけるあたりの基礎を 作ることができたことを感謝したい。
 二年生の時は、大きかったフロントメン、QB・WR・DBなど中心選手が 抜け新四年生が四人しかいないということで、チームの中心は三年生、そし て二年生の成長に期待するという中で、まずは二部定着を目指すというもの だった。フットボールで勝つにはシステムを作ること、そのためにはどうし ても人数が必要と、リクルートに力を入れるようになった。その結果、経験 者の高橋君、西迫君、本場アメリカでプレイしていた中尾君を含む総勢二十 名余りを獲得することができた。この年、今でも記憶に残るのが、秋のリー グ戦でうちには負けたがその外のチームに全勝して一部昇格を果たした上智 大学との一戦がある。タイムアップぎりぎりに当時キッカーの大野先輩のフ ィールドゴールが決まり決まり勝ちに結びつけることができた試合は非常に 劇的であり、翌日スカウティング会場となった駒沢球技場でも話題になった。 昭和六十二年度は、我々も三年生としてのシーズンを迎えチームの中心的存 在として四年生をバックアップする形となっていた。この年もリクルートを 春の第一イベントと考え、総勢二十六名の新人を獲得することができ、チー ム全体としても七十五名、この年より完全にツープラトンシステムがとれる 様になった。チームが大世帯になった分、選手の管理にそれだけ難しくなっ たが、各ユニットごとの練習がようやく充実してできるようになったのもこ のころからであろう。ディフェンスの方も大久保先輩によるシステムで、 5−2、4−3ディフェンスを使い分け、秋のリーグ戦で、宿敵独協、東大 にこそ敗れはしたが、通算で四勝二敗とようやく二部優勝も夢ではないとい う内容になってきた。
 早いもので四年目のシーズンを迎えた。前年度リーグ戦三位と過去最高順位 となった我々は、今シーズンこそ二部優勝に大きな期待をかけた。この年は 前年ブロック優勝の東大の外、独協、東洋、駒沢、亜細亜、帝京と対戦する Dブロックの所属となった。
 春の甲南戦、三十五−四十九と残念ながら敗れはしたものの、QB大島から WR住へのホットラインのパスがいいところで再三に渡り成功し、一時は逆 転勝機もあったが、当方のディフェンスの仕上りに少々精彩を欠き、この結 果となった。
 合宿地として二年目になった山中湖忍野村での合宿を終え、大きな怪我人も なくリーグ戦に入った我々は、初戦駒沢に辛勝したのち、当時成長著しい帝 京に敗れリズムを失い、続けて亜細亜にも敗れ独協、東大には、結局歯がた たず、最終戦の東洋にこそ意地の勝利で、二勝四敗と残念な結果となってし まった。
 近年フットボール人気が高まる中、ジェネラルズも一昨年は二部優勝を果た した。私共の夢である一部昇格を目指し、現役諸君はなお一層頑張ってもら いたい。

昭和六十三年度卒業部員
主将 黒木秀文
副将 渋沢修
副将 住幸隆
主務 石動谷晴広
部員 大島寛也
   稲畑貴雄
   山藤大地
   野口恭男
   上原毅
   中原章雄
   渡辺弘樹
   稲崎進一郎
   神戸純
   高石雄史
   吉田守泰(十五名)